アルペンスキーヤーとしての実績を生かし、 現在はスキークロスの大会やスキー場施設のイベントプロデュースを行う傍ら、 ジュニア育成のためのトレーニング講師なども務めている平澤岳さん。 2001/2002年のシーズンで引退を決意するまで、 かつては日本を代表するトップスキーヤーとして世界各国を転戦し、 オリンピックやW杯といった大大会でその実力を遺憾なく発揮してきた。 好成績を収めてきた道程には、さまざまな出会いや経験があったのだとか。 そこで選手時代を振り返り、“アスリート・平澤岳”をサポートしてきた 「ヒト・モノ・コト」にフィーチャーしたい。
(聞き手:BLUETAG.JP坂本仁志)
――「アスリートは実力本位」。しかし競技生活において、自分のチカラだけでは思うような結果を出すことができないという場面も意外に多いのではないでしょうか。平澤さんにとって「私を支えたヒト・モノ・コト」はなんですか?
平澤 ある意味、スキー競技は “道具”の競技といっても過言ではありません。どんなに技術やセンスがあっても、スキーの板やブーツが自分に合ったものでなければタイムは出ない。ギアの優劣によって勝敗が決してしまうウェイトが極めて高いスポーツなんです。
例えば私の場合、1994年のシーズンでは2m05cmの板を使用していました。それが2002年になると、1m55cmに。いわゆるカーヴィングスキーと呼ばれているものですね。またブーツもそうです。足元をガッチリと固める方向性から、体への負担を軽減するやわらかいブーツが主流になりました。ギアのテクノロジーが進歩して、選手の滑りのテクニックもシンプルになりました。人の役割、道具の役割が大きく変化して、“道具”選びが重要になっていったのです。
――ここ数年で、トップ選手と下位選手との差が縮まっていったということですか?

平澤 えぇ、その通りです。アルペンスキーは通常、予選を経て本戦へ進むという競技スタイルが採られています。1本目のタイムで上位30番に入らなければ2本目を滑ることはできません。以前は1位から30位のタイム差が3秒程度ありました。それが近年では1秒半に縮まってきています。
それから“道具”の進化と同じように、競技会場のコンディションを管理する技術が向上したことも影響しているでしょうね。コース上の氷を安定してつくれるようになり、タイムが天候や滑走順に左右されることが少なくなったんです。簡単に言うと、最初に滑る選手と最後に滑る選手とが同じ状況下で勝負できる。トップ選手でもフルアタックしないと上位に残れません。滑走時の遠心力に耐える強靭な体力づくりも大切ですが、少しでもタイムを稼げるギアを手に入れようと、多くの選手は“道具”にこだわっていますね。私自身も現役時代は、さまざまなメーカーさんからスポンサードを受け、シーズン中でもテスト、テスト、の毎日を送っていましたよ(笑)。
――納得のいく「モノ」(ギア)を、選手とメーカーが共同で開発していくことも?
平澤 そうですね。私は90年代、「サンマルコ」というイタリアンブランドのブーツを愛用していました。ソールが薄く、地面に足がとっても近く感じるブーツでした。緩斜面では圧倒的に速かったんです。現役選手として開発にも携わっていて、私がテストしたプロトタイプが1年後には製品化される……なんてこともありました。その後、98年の長野冬季五輪では「ラング」、そして「ロシニュール」、「ヘッド」、「ノルディカ」と、自分にぴったりのブーツを見つけるため、いろいろなブーツを試しました。フィーリングに合う“道具”との出合いが重要だと思います。
――「ヒト」との出会いで印象に残っているエピソードはありますか?
平澤 多くのマイナースポーツ選手がそうであるように、スキー選手もまた、競技生活を続けていくにあたっての労力は想像以上です。海外国内を問わず、遠征にはお金がかかりますし、そういった資金面でのバックアップをしてくださるスポンサー探し、ツアーの段取り、トレーニング場所の確保など、すべてを自分ひとりで仕切らなければなりません。多くの人に支えられて、ようやく競技活動に打ち込めるという状況なんですが、私の中で印象に残っているのはサービスマンですね。テクニシャンとも呼ばれるんですが、スキーのチューンナップを専門に行う技術者。ゴルフでいったらキャディさんのような存在です。
――スキー選手は、その“サービスマン”を個別に雇うのですか?

平澤 いえ。誰もが専属のサービスマンを雇えるわけではありません。国の代表チームに選抜されていると、そのチームで雇ったサービスマンに日々のメンテを行ってもらうといったケースのほうが多いかもしれません。ただ、多くの選手が「コーチは変わってもサービスマンだけは変えたくない!」というほど、その存在は重要です。私の場合は、スポンサーになっていただいたメーカーさんが派遣してくれるサービスマンにお世話になっていましたね。「ロシニュール」のギアを使用していた頃は、木村公宣選手(元日本代表選手として史上初のオリンピック4大会に出場したアルペンスキーヤー)の専属でもあったマティアス・ナグリッチさんがケアしてくれていました。
また、最も記憶に残っているのは、同じスロベニア人のサービスマンでクレメン・ロトリッチさんという方です。スロベニアは素晴らしいアスリートをたくさん輩出しているほどスキーが盛んな国なのですが、競技生活を断念してサービスマンに転向する選手も多いんです。だから競技そのものに精通しているし、サービスマン同士のネットワークもあって、情報交換が密に行われています。ロトリッチさんは、イギリス、フランス、アメリカチームにもいた優秀なサービスマン。年間250日を海外で過ごす私にとって、公私にわたって頼れる大切な仲間でした。一緒にワゴン車に乗ってヨーロッパ各地を転戦しましたから(笑)。いい成績を残すということは、選手ひとりの力では決して成しえることができません。こうしたスタッフの献身的なフォローがあって、ハードな毎日を送ってこられたのだと思っています。
――平澤さんは、実に10年以上にわたって世界の第一線で活躍されてきました。長い期間、アスリートとしてのモチベーションを保ってこられた秘密は、何かあるのでしょうか?

平澤 アスリートを長く続けていくと、一番怖いのが怪我ですよね。昔、南米のチリでトレーニングを行っていた際、考えられないほどの大怪我を負ったことがあります。ちょうどスーパーG(スーパー大回転。滑降競技並みのスピードでスラロームを行う高速系種目のひとつ)の練習をしていたんです。ちょっとした不注意から転倒して、崖下に転落。肩や腰、5箇所を骨折して、サンチャゴにある病院の集中治療室で4日間を過ごしました。その後、日本に戻って再検査を受けたら、背骨に亀裂が見つかり緊急入院です。チリから日本には、普通に飛行機に乗って帰ってきたんですけどね。しかもエコノミーで(笑)。
今思えば、スタート前から気の緩みがあったんでしょう。選手生命を棒に振ってしまいかねない体験をしたことで、競技に対する冷静さと緊張感を持って臨むことの大切さを知りました。
――現在は、“スキー競技の振興”と“アスリートのサポート”を活動の主体に置かれているとか?

平澤 はい。「ミヨシネットワーク」という企業に在籍し、スポーツマーケティングやプランニング、スポーツ施設のPRイベントをプロデュースしています。BLUETAG.JPでも販売されているスポーツギア「BUFF」を日本に紹介する事業も行っているんですよ。
それと、自身では「GOLD PEAKS」というプロジェクト組織を立ち上げ、アスリートのサポート活動を展開しています。選手たちが競技に集中できる環境づくりを、マネジメントというかたちでバックアップしていくのが目的です。またジュニアの育成はもちろん、先ほど申し上げたサービスマンのようなスキーの専門家を育てる試みにもトライしています。スノースポーツの活性化を図りたいと考えているんです。
――支えられる立場から、支える立場に……ですね。
平澤 そうですね。私が選手時代に経た経験は、きっといろいろな場面で生かせるはずです。例えば、スキークロスをはじめとする競技大会の企画などがそれ。そして夢はズバリ「日本でワールドカップを開催する!」ことですね。スキーヤーの視点で考えるからこそ出てくるアイデア、運営を円滑に進めるための工夫など、私ができること、やるべきことはたくさんあると思っていますから。
[プロフィール]
ゲスト・平澤 岳
1973年、長野県生まれ。元アルペンスキー日本代表。スキースクールを経営する両親のもとに育ち、ジュニア時代から類い稀な才能を発揮。全日本スキー選手権、世界選手権、ワールド杯、オリンピックなどの大会で活躍を遂げる。引退後はビジネスの世界に転身し、各種スポーツ振興事業、アスリート支援活動などに意を注いでいる。
